'Trans Kids' chapter 3 "The Gender Clinic"
#書籍紹介
原題:Trans Kids: Being Gendered in the Twenty-First Century 3章 (pp. 54-93)
著者:Tey Meadow
本書籍について
2018年出版。USをはじめとした北米圏の文脈におけるエスノグラフィ+インタビュー研究。21世紀において、トランスの子供(とその親)が、親しい人からクリニックや学校などの組織制度に至るまで、いかなる仕方でジェンダーをめぐる交渉を繰り広げているのか(せざるをえないのか)を描き出した書籍。
本チャプター(3章)のテーマ
今最も政治化されて問題になっている、子供のトランスの医療について記述した章。
子供のトランスの医療とは、思春期の二次性徴ブロッカーとホルモン剤の使用のことを意味するが、今、UKおよびUSを中心にバックラッシュが最も苛烈に作動している領域(このレジュメを読む人はおそらく身にしみて感じているはず)。
本章の興味深い点は色々あるのだが(子供の二次性徴に対する捉え方の多様性、親、医療者を含めて「後悔」が問題・政治化される仕方、カナダのKenneth Zuckerのクリニックがいかに問題だったのか...などなど)、最も重要なテーマはおそらく子どものトランス医療は何を目的とするか?という問いに対する2つのアプローチを提示したことだと思う。
Tey Meadowは以下のように言う:
私は、極端な規制側と促進側の臨床家が、認識論的スタンスが異なるだけで、最も複雑な症例について驚くほど同じような質問をしていることを知り驚いた。両者とも、どの子どもがトランスになる可能性が高く、どの子どもがシスジェンダーやゲイになる可能性が高いかを見極める、確実で予測可能な方法を切望していた。... 両者とも 「間違い 」を犯すことを恐れていた。かれらは、 最悪の過ちとは何かについて意見が分かれただけだった。古典的な臨床家にとって最悪の過ちとは、苦労してでもシスジェンダーとしての人生をもっともらしく生きるかもしれない子どもの移行を促進することであり、もっと悪いのは「後悔する子ども」、つまりいずれはdetransitionを望むような子どもの移行を促進することである。促進的な臨床家は、医学的な(あるいは「精神薬理学的な」)表現も含めて、自分のアイデンティティを完全に表現することを妨げられているジェンダー非順応な子どもたちが受けるトラウマについて、最も心配していた。(58-59)
つまり、ざっと言うと「最悪の間違い」とは何かの認識が違うってこと。
「極端な規制側(extreme regulatory)」は「『本当は』シスジェンダーだった子どもに 『間違って』治療をしてしまう」ことを恐れていた。
「促進側(facilitative)」は「自分のアイデンティティを表現することを妨げられる(服装や振る舞いも当然そうだし、ここでは望まない二次性徴の発現も含まれている)ことで、『間違って』トラウマを与えてしまう」ことを恐れていた。
このアプローチが違うだけで、おんなじ懸念なのにだいぶ意味が変わってしまう。前者のアプローチをとると、「本物」のトランスかどうかを判断するような眼差しに晒されるどころか(ちょっとでも「鑑別」に引っかかりそうな要素を持っていると医療を受けられないとか、「自死する」ぐらいの強い衝動やトラブルがないと本物じゃないとみなされて医療を受けられない、みたいな)、子供が希望する性別役割や性のありようを探求することを否定する臨床実践を正当化しかねない(実際Zuckerは子供の希望するおもちゃや服を取り上げる「治療」を推奨していたりした)。もっと言えば、こう言う目線や態度って子供にも伝わるので、子供が医療者を不審がったり、萎縮してしまい適切な治療関係を築けないこともある(と言うケースがエスノグラフィで描かれている)
前提として一応言っておくと、トランスであるとアイデンティファイすることと、自身の体から生じる二次性徴への違和感及び自身の体から生じないタイプの二次性徴を求めることは別の問題(本章でも前者のケースには誰も医療ケアを与えようとはしていない)。問題は、後者のニーズを子供が訴える時に、それをどのように扱うか、というアプローチについて本章は問題にしている。
本章の最後では、筆者のTey MeadowとZuckerの議論を再演することで、このアプローチが2人の立場(そしてトランス医療のあるべき姿の認識)をはっきりと分つものだったということが示される。
ただ、転向療法をはじめとする子供の表現を尊重しない、というアプローチの医療が(専門機関含めて)存在していた、という問題点はよくわかるが、ブロッカーの是非についてはちょっと不足かな?筆者も迷ってそうだ
2025年のUSの文脈を見ると、この頃はまだおとなしかったんだな....(遠い目) という気持ちになるな....
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※本章のあちこちに、CAMH(カナダ、トロントにある中毒精神保健センター。2015年までKenneth Zuckerという、小児期の性別違和を専門とする有名なCPが率いるジェンダークリニック(GIC)があった)のフィールドワークの様子が書いてあるんだけれど、その様子は省略し、主たる内容を説明する
筆者はCAMHで1週間のフィールドワークを行い、11人のGICを利用する親へのインタビュー、及びインテーク、臨床スタッフのミーティングを行った。
Zuckerは、自身のアプローチが問題視されている(実際フィールドワークを行った同年11月に閉鎖されてる)のを知っていたが、自身の考え方に対して葛藤したり守りに入る様子はなかった
本章の起点となる問い:なぜZuckerは、トランス医療のパイオニア的存在とされていたのにも関わらず、トランスの大人たちや、多くの(トランスの子をもつ)親たちから非難されているのか。北米で初めて子供のトランス医療を提供したクリニックが、わずか15年後にはコンバージョンセラピーを行ったと問題視され閉鎖されたのか(56)。
答えは、20年間で精神医学が急激に変化したことにある。精神医学は、ジェンダーアイデンティティや行動を、モノガミーかつヘテロセクシュアルな人々の子育て(Zuckerは「幸せな家族」モデル)と結びつけるような発達論、あるいは社会環境に基づいた病理とみなす理解枠組みとしてではなく、生物学的に基礎づけられる自己の中核的な特徴として理解するようになった。
この時期のトランスアクティビズムは以下のような変革を促していた
性のありようを規制する医療から、多様な性のありようを促進する医療へ
ジェンダー非順応な人々を精神異常や社会関係の障害とみなす枠組みから、同性愛に似た不変かつ生得的なバリエーションとして理解する枠組みへ
現在の多くの子供のジェンダー医療の臨床家にとっては、「どのようなジェンダー非順応なケースが安定したアイデンティティを示すのか」という問いが重要になりつつある。この問いが重要になる背景には、トランスの経験は人間のバリエーションであるとしつつ、多くの場合は治療を必要としている、という基本的なパラドクスがある。
そのため、精神病理学的な枠組みからの解放こそあれど、臨床医は依然として治療へのアクセス可否を判断している
子供達の社会的・医学的な移行を促進するアプローチの登場は、臨床家に新たな不安を引き起こしている
臨床家たちは、どのような子どもがトランスジェンダーになる可能性があるのか、どの時点で移行を促進することが適切なのか、この選択の責任は誰か、といった問題に直面している
CAMHの問題点は、しばしばトランスの人々を精神病理学的に扱っていることにあると一部のアクティビストは語るが、実際はより複雑なことが起こっているように思える。実際のところ、「極端な規制側」と「促進側」は、ある点をのぞいて、全く同じ問いを抱えているのだ。
i.e. どのような子どもがトランスジェンダーになる可能性があるのか、どの時点で移行を促進することが適切なのか、この選択の責任は誰か、といった問題
「極端な規制側」と「促進側」は、両方とも 「間違い」を犯すことを恐れていたが、かれらは、 最悪の過ちとは何かについて意見が分かれていた
「極端な規制側」は、子供達は、可能な限り移行をすべきではないと考えていた。かれらは、シスジェンダーの生活を送れたはずの子供に「間違えて」移行を促進することを問題視していた。
「促進側」は子供がうまく適応していればどんな形であれ望ましいと考えていた。かれらは、子供達が自分のアイデンティティを表現できないことに伴うトラウマを問題視していた。
アウトローな診断
歴史的に、成人のゲイやトランスの人々に対する精神医学的治療と子供に対する治療の眼差しは相反する関係だった
成人のゲイ・トランスの人々に対する解放的な見解の出現と同時に、子供達に対する厳しい制限や医学的眼差しが加わっていった
ジェンダーに対する医学の眼差しが拡大することと、子供のジェンダーが不安定であることへの不安が結びついたのは、インターセックス(IS)やトランスジェンダーの人々への医学的関与の導入、そして20C後半の「不変のジェンダー・アイデンティティ」という考え方の導入がきっかけである
IS児のジェンダーを説明するために、ジョン・マネーは社会学習モデル(ジェンダー役割やアイデンティティは、幼児期の育て方で決定する)を支持した。
このモデルは、安定したジェンダーアイデンティティの存在と、(それが安定するまでに)ジェンダー非順応な子供に対する早期介入の必要性を主張する基礎となった
ジェンダーアイデンティティという語を作ったロバート・ストラーは、(体と反対の)ジェンダー・アイデンティティは幼児期の精神力動的なプロセスの中でのダメージが原因だと主張した。
このモデルは、一方で、トランスのアイデンティティを精神病理とみなす精神医学者たちと、性別肯定ケアの消費者主義モデルを求めるトランスのアクティビズムの双方を退けて、成人の性別移行の医療を提供するクリニックを確立することに成功した。
他方で、同時代(60年代-70年代)は子供のジェンダー非順応な行動に対する医学的な治療法を確立した時代にもなった。これらの治療を提供するクリニックは、ジェンダー非順応な子供に行動療法などを用いて、成人したトランスセクシュアルになることを防ぐことが目的だった。これらのクリニックの顧客は、ジェンダー非順応な子供を気に入らない親だった。
同性愛が解放運動によって脱精神疾患化した1970年の終わり頃、DSM-III(1980)には「子供の性同一性障害」が登場した。多くの人々は、このカテゴリがジェンダー非順応な子供を病理化し、「治療」を提供するためだったのではないかと疑問を呈している
現在では、多くの臨床家はジェンダーに関する診断をDSMからは削除し、精神ではなく身体の障害であることを示すことを強く主張するが、今でも論争になっている
不安な性別移行
現在では、トランス医療はより消費者主導型のモデルになってきてはいるものの、医者や家族が簡単に治療を決定できるわけではない
親と医者たちは、子どもがどの性別の道を歩むべきか、またその子どもに必要な社会的・生物医学的支援を決定する役割を担っているが、こうした決定は親と医師の双方に大きな不安を引き起こしている
色々な例
8才のジェイド。数年間安定して女の子として快適に生活していて、アイデンティティも確証していたから、ブロッカーは全く危うくはなかった
サム。幼少期こそ女性的な趣味や興味、女友達と遊んでいたが、自分の体には満足しているから、医療は受けないだろうと考えていた
エイブリー。「他の子と違い」自分の体の違和感を強く主張せず自身がない感じではあった。そのため親はブロッカーを受けるか何度も迷い、ゲイであったらよかったのにと思った。思春期への恐怖は表現していたし、内因性の男性の二次性徴を起こしてしまうと、のちに移行するときに支障をきたすことは理解していたためブロッカーで時間を稼ぐ決断はしたが、エイブリーが自分のことを明確に理解するようになることを願っていた
エイブリーの主治医ロメロ医師は、どの子供が安定してトランスのアイデンティティを持つのかどうかを知る方法を切望していた
彼は様々な調査やアセスメントを行っていたものの、最終的には親との会話が子供を理解する手段となっていた
医師と両親の双方で多く表明された恐怖は、医学的な治療が早すぎるのではないかという不安だった。かれらは、子供達が感じている不安や悲しみ、怒りが本人にどんなに負担をかけているかを天秤にかけ、子供に代わって医学的なアプローチをするかどうかの判断を下すことに苦労していた。
ロメロ医師は、子供には3つのタイプがあると考えていた:強くトランスを主張しない子供達、明らかにブロッカーが必要な苦痛を表現する子供達、そして判断が難しい「第三のグループ」。
この難しいグループに対する将来の予後を見分ける因子を見つけることが、ジェンダー非順応な子供の長期的な心理的・アイデンティティに関する研究に従事する治療医の数を増やす動機となった
Cohen医師も同様に、ジェンダー・アイデンティティの発達は生物医学的プロセスが働いていること、それを分離特定することで長期的予後を予測する方法を生み出して不確実性の最小化することを期待していた。
確実性を求めるあまり、多くのクリニックは治療の条件として標準化された検査を要求するようになっている
生物学的研究の焦点は、主に脳の構造とホルモンのレベルや胎内での曝露との関連性を研究することである。これは研究者たちが身体とジェンダー・アイデンティティとの関連性を信じるようになったことを示すものである。
ただし、最初期の心理学者とは違い、ジェンダー・アイデンティティは、もはや性器の形状ではなく(e.g. 精神分析のペニス羨望など)、脳の構造や内分泌システムに結びつけられている
生物学は、親にとっても医師にとっても、ある子供のジェンダー・アイデンティティを安定した、予測可能な信頼できる方法であると考えられている
子供がある性別のアイデンティティに固執して、揺るぎない主張を示している場合、親にとってブロッカーは避けられないことのように感じられる
このような子供の子供時代は、思春期の始まりに医学的介入が必要で、かつ移行に対する社会的反応を管理するための心理的支援を必要とするだけで、シスジェンダーの子供と同じように語られている
他方で、子供がトランスであることを強く主張しない、あるいは体への違和を示さない子供に対しては、親は医学的介入を不必要だと感じる。
このような親たちは、社会的期待に逆らう子供達をどのようにサポートするかに焦点を当てる
その中間にいる子供達に対しては、親たちは不安な決断を抱える
親や医師は、思春期の身体の変化は、身体は大きな代償を払わなければ元に戻せないレベルで男性化/女性化することを理解している
一方で、思春期から逃れることはできないため、親や医師は、間違うことは残酷に等しく、「正しく」選ぶことを切に願っている
固執者(presisters)、離脱者(desisters)、後悔者(regretters)
かつて精神医学は、規範的なジェンダーを生きる人たちと、社会的病因により乱れた精神異常者という二項対立で理解をしていた
しかしトランスジェンダーの子どもたちが臨床に組み込まれたことで、認識論はより複雑になった
医師が直面する問題は、子どものジェンダーが同化するのに十分なほど規範的であるかどうかではなく、むしろ真正かつ精神的に、特定のジェンダーへの主張をしているかどうかとなった
ジェンダーの生物学的研究や縦断的な研究は、ジェンダー化された主体性について3分類を採用した。ただしこの分類は決して中立的ではなく、シスジェンダーであることが規範的かつ望ましいという価値観が前提となっている。
固執者(presisters):大人になってもずっとアイデンティティが続いている人たち
離脱者(desisters):シスジェンダーの異性ないし同性愛者になる人たち
後悔者(regretters):社会・医学的に移行したが、最終的に再移行した人たち
80年代終わりから90年代前半にかけて、生物学的な説明の推進者たちは、生物学的な説明の「不変性」こそが、トランスの人たちの政治的正当性をもたらすと考えた
生物学的研究の拡大によって、研究者たちの理論枠組みは不適切な社会化から、生物遺伝学的的要因としての理解へと移った
かつては、ジェンダーの非定型性は不適切な母親の養育(不適切なジェンダーモデリング、過剰な共依存、親の不在、精神病理)と結びつける事例研究がほとんどだったが、現代では脳の性別、ホルモンのバランス、遺伝学的要因を実験的に調査することを試みるものが多い
ジェンダー非順応な若者への比較的大きな縦断的な研究は3つだけ(小サンプルは複数ある)。古い研究は継続率が極めて低いが、これについて古典的な臨床家は「ジェンダー非順応な若者の大多数は最終的に同性愛者であり、トランスジェンダーではない」という証拠であると解釈している。
ただし、新しい2つは継続率は遥かに高い。このトピックについて執筆する人たちは、古い研究は診断基準の古さ、ジェンダー規範の厳しさ、多くの親がジェンダー非順応な子供を「治療」するために連れてきていたこと、ジェンダー行動に関する規範が緩和されるにつれ、医療につながる子供がより強い性別違和をもつ人になっていったことなどによって説明する(76)
2017年初頭ごろから、「脱性別移行者(detransitioners)」に関する大衆報道が増加するようになった。
重要な点は、こうした議論が1960年代の精神医学者たちが持っていた、ジェンダー役割の強制と規制、そして規範的なジェンダー役割を果たさないことに対する病理的な診断こそが医療者の役割であるという考え方の存在を示していることである。
しかし、促進的な臨床家においても、「後悔者」は、ジェンダーに対する主張を本物かどうか裁くのに失敗するかもしれないという恐怖を象徴する入れ物の役割を果たしている
「後悔者」の人々の言説は、早期の移行に反対する議論の代理として機能している。ただし、社会的・医学的に性別移行を行った人のうち、その決断を後悔するケースはわずかであり、後悔するとしても、多くは社会的な理由である(78)
術後の後悔は「自殺と並ぶ性別適合手術の考えうる最悪の結果」としてみなされてしまうことがある
最初期の後悔に関する結果(スウェーデン、15例)は、最初期で実験的であった医療の、術後の身体的ないし機能的な結果に対する不満である。また、他の研究は、サンプル数が少なく、何を持って「不満」とするかは不明確である。
既存の研究を含め、しばしば研究者は、「不満」と「後悔」を混同している
ひどい時だと、トランス女性の6%が性行為に膣を使用しなかったことを後悔の結果として利用したケースがある(Olsson and Möller 2006, 502)
「後悔」に関する覇権的な記述は、再移行に関する実際の物語と比較すると平板である
e.g. 再移行をしたが、「後悔」はせず楽観的な実際のナラティブ「非常に困難な状況であっても、自分には変化し成長する計り知れない能力があることがわかった」(Anonymous 2017)
なぜ「後悔者」の言説は注目されるのか?ある人にとっては、ジェンダー非順応を精神病理と結びつけるための機能を果たす。またある場合には、ジェンダーアイデンティティの行方の不確実性に遭遇した臨床家の不安と共鳴する。
後悔の調査がほとんどないのは、それが単純に珍しいからかもしれない。実はZuckerも、記憶にある限り後悔者の症例は1ケースしかないと述べている
ジェンダー非順応と不適切な養育を関連づける説明は、決定することへの不安に取って代わられている
子供の同意能力は限定されていると考えるため、臨床家が判断する立場にあると考えられる。このとき臨床家は、「後悔者」の幻影に縛られる
ある臨床家は、身体こそが真正であり、子供の主張は無効だとみなす。他の臨床家は、ジェンダーの非典型性が、他の精神病理(自閉症など)かどうかという問いを考える
治療をすべきであるという規範が確立されるにつれ、ジェンダーアイデンティティの発達の軌道を分類し、個別の経験カテゴリーを安定させようとする欲求はますます強まる。ジェンダーアイデンティティの発達の仕方の分類は「規制的理想」であり、不確実性に対抗するための(親と臨床家の)戦略であり、そして分類自体がジェンダーアイデンティティの発達の仕方を形作っていく(80)。
この枠組みでは、「固執者」こそが真のトランスであるが、「離脱者」にはトランスであることを助長してはいけない。そして「後悔者」はなんとしても避けなければならないという帰結を導く。
これは、子供の性別移行を禁止する側にまわるリスクのみならず、ジェンダーは柔軟で発達するものではなく常に固定的であるという前提を固定化させてしまうような危険な衝動である。
次のセクションでは、CAMHで行われていたトラウマ的な治療(行動療法)についての記述があるので要注意!!
CAMHのジェンダー・アイデンティティクリニック(GIC)の中で
小児期のジェンダー非順応についての我々の知識はほとんど、CAMHのGICに起源がある
CAMH、ニューヨーク、アムステルダムの3つのクリニックは、数十年に渡り臨床的言説とデータ作成の両方を支配してきた
ZuckerはDSM-IVと5の両方で診断カテゴリの改訂に関わる委員の委員長だった。CAMHは子供の性別移行を促進する最も著名なクリニックの一つだったが、同時に最も規制の厳しいクリニックの一つと考えられていた
臨床の場では標準化への注力が強く感じられる。筆者が話を聞いた親の何人かは、CAMHで受けた最初の評価の多さに圧倒されたと振り返っていた。
どの親も、子どもが個別に丁寧に対応されていることには安心感を覚えたが、同時にその精査の厳しさにはある種の居心地の悪さも感じた
筆者のobservationにおいてもそれがはっきり伺えた(例:12歳のStefのケース。インテーク面接では、Stefとその家族は同意なく外部から観察されていた。Zucker氏は患者の写真を取ることもあった。Stefは居心地が悪そうで、筆者は別に行ったStefと親との家族会議の場の姿とは別物だった。ソファの片隅でほとんど質問に答えなかった。インテークの後、Zucker含め臨床家たちは、Stefは自閉症スペクトラムで、摂食障害かもしれないし、どこまで本物の性別違和なのか、何が原因なのか見極めるのは難しいと話していた。)
CAMHに向かう親のほとんどは、社会的、学業的、個人的に苦しむ子供達を抱えて、取り乱してクリニックにやってきた
ほとんどの家族は、CAMHにて少なくとも一時的にでも、子供を割り当て性別に再社会化するための治療を行なった(子供が持っていたおもちゃや衣服を取りあげ、割り当て性別のものに取り替えた)。この「治療」に対しては、2人の親は子供は素直に受け入れたと語るが、残り(9人?)は苦痛と葛藤の物語を語った
SabrinaとCharile(Lucienの親)の例:Lucienが女性的であることが理由で、他の子供達の関係に苦しんでいたことが理由でCAMHに連れて行った。しかし最初の1年間の治療は「トラウマ的」だった。本人が持っていたかつらや人形、衣服を取り上げられた。Lucienは「お願い、もう一つだけ人形をくれない?」と惨めにも懇願し、クラスメートや店からおもちゃを盗んで自分の部屋に隠すようになった
Sabrinaと同様、他の親たちもCAMHが提案する行動療法を行い、苦労した。かれらは、ジェンダー非順応であることに何か社会的な病理が存在しているに違いないと信じ、最終的には割り当てられた性別に心地よく感じることがゴールだと語った
多くの親は、本人のアイデンティティやジェンダー非順応性を問題視する解釈に反感を抱いたり、それに伴う治療条件に抵抗する一方、親自身も一定の責任を感じていた
多くの親は、Kennisとの関係に葛藤があった。Kennisの考えに賛同するところはあったものの、彼のイデオロギーが人間として、親として自分たちを束縛することに悩んだ
Linda(Terenceの母親)は、Zuckerに、母親として不適切だから苦悩が助長されているのではないか、育児に専念するために仕事はやめるべきだ、などと言われたことを振り返り、その性差別的な偏見を否定した
Lindaが、Terenceがトイレから出てこなくなるなど、不安の症状が強くなったことをZuckerに伝えると、Zuckerは「面白いでしょう?」とLindaに言った。Lindaは唖然とし、この時からCAMHとは器械的な付き合いをするようになった
親たちが語るZuckerとの関わりは複雑だった。客体として扱われた経験や、ストイックで、judgementalで、恥をかかされるような経験だった。とはいえ、どの親も自分の子供がクリニックでの治療がなんらかの利益を得ていると感じていた
親たちにとって、「彼を激しく嫌うことはできるが、それでもある種の親しみやつながりを感じることもある」存在だった。困難を抱えた子どもたちが心理的な安定を得るのを助けることができた一方で、彼の方法のいくつかは感情的な負担を伴うものだった
共感の破壊
CAMHのフィールドワーク最終日、筆者はZuckerを夕食に誘いフィールドワークのお礼を言った
Zuckerは筆者の性別について関心を持っているようだった。筆者はその質問をかわし、Stefについての質問に切り替えた
Stefの治療計画について、Zuckerは、Stefのジェンダー非順応は他の精神的問題によって現れているのではないかと考え、Stefのジェンダー非順応の原因となっている可能性のあるものを解き明かすことに取り組むと言った
筆者はこの時、Zuckerが性別の越境のほとんどをトラウマの副産物とみなしているのではないかと考え、以下の質問を投げかけた:「つまり、あなたは性別違和がトラウマやその他の問題への適応として生じる可能性があると考えているのですね。では、それが肯定的な適応であることもあり得ると思いますか?」
この言葉を発した瞬間、筆者は自分の目に涙がにじむのを感じ、驚いた。
Zuckerも筆者も、人間の性のありようを固定的だとは考えていない。しかし、ジェンダーやジェンダーアイデンティティが「制約のある状況の中での即興的な可能性」や個人間の相互作用の中で形成される関係的なものとして理解される時、ジェンダーの生成過程とはなんなのかを考えることと隣り合わせとなってしまう
この際に、人のジェンダーやジェンダーアイデンティティが傷跡のようなもので形成されていると考えることは飛躍的ではない。しかし、ジェンダーの逸脱をなんらかの補償行動とみなすことと、それを病理的なものと考えることの間には、危うい滑り落ちるような境界がある。
後者の立場を採択すると、非典型的な性のありようを持つ人々は、結局「損傷した存在(damaging goods)」とみなされることになるからである
同時にこの瞬間は、私と彼が共に抱える問いを浮き彫りにした。それは、「私たちは、ジェンダーをそれを生み出す無数の複雑な要因からどのように切り離せるのか?」そして、「あらゆるジェンダーを病理として捉えることなく、適応の一形態として真剣に考えることは可能なのか?」という問いである。
おそらく、以下の考えに賛同できるかどうかが、筆者とZuckerの間の分岐点である:「すべてのジェンダーは適応であり、認識を求める呼びかけである」
訳註:おそらく『ある人が発する、ジェンダー 表現/違和/アイデンティティに関する主張は、(結果的に一時的であるとか、それが社会的に適合的かどうかとか一切関係なく、)その人があるジェンダーであることの承認を求める、その人の実存に関わる重要な呼びかけであり、真剣に聴かれるべきである』という意味だろう
CAMHのGICは閉鎖され、ZuckerはもはやCAMHでGICを運営していない。彼はZuckerの解雇に関わった活動家と訴訟を繰り広げており、また依然として研究を発表し続け、トロントで個人診療所を続けている
筆者はCAMHの裁判に招待され、最前列の席を提供してくれた。筆者は彼に対して尊敬と懐疑の両方の目を向けている。この両方を併せ持つ人物をどのように考えるかは難しい。
結論
ジェンダー非順応な人々に対する精神医学的な実践が、規制的・病理的な立場ではなく、消費者主体型のケアモデルに移行する中で、様々な臨床的な課題が生じている。これらの問いは、大きな制度変革の過程に潜む複雑さを浮き彫りにしている。
Q. 個々の臨床医は、トランスとアイデンティファイする顧客が移行関連のケアを受けられるかどうかを判断する役割を担うべきなのか?
Q. この判断基準は、子どもの患者に対して変わるべきなのか?
Q. ジェンダーを、精神生活の他の側面、セクシュアリティ、トラウマの履歴、併存する精神的課題とは完全に切り離された可変的なものとして捉えることは重要なのか?
Q. 社会的・医療的移行を支援するためには、個人を完全な自己認識を持つ主体、すなわち静的で根源的なアイデンティティを持つ存在として理解する必要があるのか?
トランスのアクティビストたちは、CAMHの閉鎖が、臨床家たちがジェンダー非順応性を人間の多様性の一形態として捉え、多様な発達の軌跡があることを認める方向へ転換する方向性に向かうことを期待している
臨床医たちは一般に、トランスの成人に対しては比較的不確実性を受け入れやすい。これは、成人にはより大きな自己決定権と主体性があると見なされているためである
しかし、トランス関連の医療を求める子どもたちが増えるにつれ、臨床医の間には強い不安が生じている
一部の臨床医は極端な立場をとるが、大多数はその中間に位置し、自律性・主体性・自己認識・臨床的責任といった複雑な問題を慎重に模索している
これらの問題は、一方で予測可能性や標準化への欲求を生み出しているが、他方で、精神医学が持っていた過去の加害性との明確な決別や、より良いトランス医療を模索する動きを促している